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23代

2016年08月29日

清水区郷土史研究講座開催のお知らせ

主催 清水区観光ボランティアガイドの会  共催 静岡市
後援 清水郷土史研究会 ぶんかさろん・しみず フェルケール博物館  協賛 鈴与株式会社

で下記講座を開きます。入場料は無料ただし希望者多数の場合は抽選。申し込み受付等は静岡気分等をご覧ください。
会場は清水区役所3階ふれあいホール。

  講演日               講演者                        演題             申込人員
平成28年10月29日(土)   本多隆成静岡大学名誉教授         近世東海道と清水区4宿    100名  
       11月19日(土)   椿原靖弘フェルケール博物館学芸部長   江尻宿の特徴           100名
12月17日(土)   郷土史家 渡邊康弘              興津宿の今と昔          100名
平成29年 1月21日(土)   県地域史研究会幹事 岡村龍男       江戸時代の由比宿        100名
2月12日(日)   静岡古城研究会会長 水野茂        薩埵山の戦い           100名
  3月12日(日)   後日発表                     江川太郎左衛門と蒲原宿の   100名
                                         問屋職渡邊金璙

一流の講師陣です。ぜひ全講座でも、興味のある講座だけでもご参加ください。





  


Posted by 23代 at 18:48Comments(0)

2014年09月29日

富士の山ビエンナーレ展と蒲原地区散策ガイドについて

富士の山ビエンナーレ由比・蒲原展を11月に開催します。この開催に協力して蒲原では
下記のような歴史散策コースを設け、ガイドにより案内・紹介して行きたいと思います。
申し込みは渡邊まで054-385-3441までお願いします。
人数限定のコースが多いので早めにお申し込みください。
当木屋江戸資料館では代表がガイドを、館長が木屋江戸資料館を案内します。

                    記

1、  11月9日(日)  国土交通省歴史国道選定(静岡県内唯一)
              江戸時代の風情が残る町
              「蒲原宿(主に木戸内)を歩く」
              8時30分新蒲原駅集合  参加費 300円

2、 11月12日(水) 蒲原が日本に誇る名所を歩く
              青山荘、岩辺家、渡邊家
              限定15名
              8時30分新蒲原駅集合  参加費 500円

3、 11月19日(水) 蒲原が日本に誇る名所を歩く
              青山荘、岩辺家、渡邊家
              限定15名
              8時30分新蒲原駅集合  参加費 500円

4、 11月25日(火) 「黄金(小金)の浜田子の浦を歩く」
              ①東大寺大仏製造の貢献を表彰された
                金の産出地「小金」を歩く
              ②蒲原特産いわしの削り節又はさくら海老
                の工場見学と即売会
               限定25名
               8時30分蒲原駅集合  参加費 300円 
               注 これだけ蒲原駅集合
            
5、 11月29日(土) 「古代田子の浦の浜を歩く」
              ー山部赤人はどこで〝田子の浦ゆ、、、、、゛
              を詠んだのか探しましょう。
          8時30分新蒲原駅集合 参加費 300円

   なお詳細をお知りになりたい方は木屋江戸資料館
渡邊(054-385-3441)までお問い合わせください。



  


Posted by 23代 at 11:48Comments(2)

2013年10月04日

古代田子浦考 1

山部赤人が「田子の浦ゆ・・・・・」と詠った場所はどこなのかを何回か
に分けて説明していきたいと思います。

1、地元静岡の大学の先生の見解はどうなのか。代表的な意見をみて
  みると

  ①静岡県立大学のT名誉教授
   
    田子浦は由比~蒲原の富士川までの海岸をいう。詠まれた場所
   をさらに絞ると現在の蒲原地区富士見橋近辺といえる。西から東
   へ歩いて来て富士山が急にその全体を現した時の、雄大な姿を
   見た時の感動を感じる場所はこの場所しかない。
   富士市田子の浦では蒲原から富士山の同じ姿がずっと見えてお
   り、そうした感動はない。(平成25年9月 入江万葉集講座)

  ②常葉学園短大 0教授
   「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」
   初句は「田子の浦に出て」見るのでは決してない。「田子の浦を通っ
   て出て」見るのである。二句目の「うち出でて見れば」は、今まで視界
   がさえぎられていた所から急に広々とした所に出て見る事をいう。田
   子の浦を通ってある場所にに出たとたんに、眼前に富士山の全容が
   望めたその感動が一首の眼目である。東へ下る道筋にそうした景の
   現出する場所を求めるとすれば、それは薩埵峠あたりがもっともふさ
   わしい。とすれば万葉の田子の浦は、興津の東方から由比・蒲原附
   近までの海岸と見るのが正しい。田子の浦が徐々に東へ移行し、現
   在の田子の浦港に落ち着くのは中世以降のことであった。(静岡の
   文化 1991秋号 第27号 万葉びとと海)
 
                 今回はここまでとします   

  


Posted by 23代 at 22:30Comments(2)

2013年10月02日

渡邊家土蔵パネル展示について

当家の土蔵(静岡市指定文化財)がパネル展示ではありますが滋賀県
近江八幡市で紹介されます。

以前このブログで紹介しましたが、三階建ての蔵は全国に55件しか残
っていないそうです。その中でも当家の蔵は古さからいえば4番目か5
番目。構造は四方転びという江戸時代の耐震工法で造られている。使
用用途が文書蔵である(他の蔵は米蔵とかみそ蔵とかである)。いずれ
も他に例がないものであるという。非常に珍しものだそうです。

パネルで紹介するのは全国の中で数例だけだそうです。
三階蔵の公開イベント(これがメイン)のなかで展示されるようです。
公開する三階蔵は地元の「旧西川利右衛門家住宅土蔵」です。
公開イベント 11月30日~12月1日
パネル展示  10月~2カ月


主催は滋賀県立大学大学院人間文化学研究科 地域文化学専攻の
久保さんです。久保さんは三階蔵の専門家です。

私ども夫婦も行ってみようとおもっています。



  


Posted by 23代 at 19:46Comments(0)

2013年03月06日

館長「県立庵原高校」で講演

館長は県立庵原高校で安政の大地震ついて3月12日に庵原高校で
講演します。
庵原高校は高校再編計画により、来年度から静岡市立清水商業高校
と統合される静岡市立桜ケ丘高校となります。
庵原高校は地震の研究をおこなっており、統合前の忙しい時ではあり
ますが、高校側の要請により最後の思い出になればとお受けいたしま
した。
地元の高校がなくなることは地元住民として、非常にさみしいことです。
若者がいなくなってしまい町の活気が失われてしまうような感じです。

でも高校生のみなさん新しい高校でがんばってください。  


Posted by 23代 at 10:24Comments(0)

2013年02月25日

「志太歴史と文化を楽しむ会」様来蒲(館)

2月23日(土)
 「志田歴史と文化を楽しむ会」の皆様20名を、蒲原宿(当家他)と宿外の
 名所旧跡の案内をしました。蒲原宿は以前にも見えられている方もいら
 っしゃいましたが、説明つきだと関連がよくわっかて、また歴史の勉強に
 なるとの感想をいただきました。
 今回は宿外は私が、宿内は妻が案内させていただきました。
 「杏が歩く。夢見る東海道」のテレビ番組を見ていた方もおり、当家の蔵
 に興味を持ち1時間以上見学されていきました。
  


Posted by 23代 at 09:28Comments(0)

2013年02月20日

田子の浦ゆ........山部赤人はこの歌をどこで詠んだのか

2月17日(日)静岡市旧蒲原町で「蒲原宿の会」といほさき街道案内人
の共催で山部赤人の「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の
高嶺に雪は降りける」はどこで歌われたのかを探るウォーキングが
開催されました。当日は曇りながら富士山はくっきりと見え参加者65
名のみなさんも喜ばれました。
案内人(私もその一人)から①うたの分析から②江戸時代古地図から
の分析③旧蒲原町での伝説やお祭りからの分析④案内人独自の
分析から等が紹介され。結論としてこの歌は旧蒲原町の富士見坂
(橋)から蒲原中学校の一角で詠まれた可能性が強いとの説明が
ありました。

2月16日(土)夜9時から10時54分にBSジャパンで「杏が歩く。夢
見る東海道」の番組が放映され、当家が紹介されました。訪問され
たのは「武士の家計簿」の著者礒田先生と今人気の女優の杏さんです。
今までも当家には「安政の大地震」「ディアナ号はどこに沈んだのか」等
でテレビ、新聞、雑誌などの取材を受けていますが今回は「江戸時代の
女性の生き方」でした。興味のある方は再放送をご覧ください。


それにしても杏さんの足は長かった。私の倍はあったかな。
  


Posted by 23代 at 19:24Comments(0)

2013年01月11日

平成23・24年度の活動記録

23年度

資料館開館 土曜・日曜・休日他 展示品・蒲原宿・渡邊家・土蔵の説明等

4月    静岡新聞の取材 安政の大地震について(4月22日記事)
6月    庵原新聞の取材 安政の大地震について(7月2日記事)
8月    静岡市文化財資料館に安政の大地震関係書類・絵図等を出品
       同資料館にて「幕末に揺れにゆれた大地震」展 10月22日~
      11月27日
7月28日  「飛び出せ!科学くん ディアナ号はどこに沈んだのかの特別
       番組」の取材撮影。9月10日TBS系列で放映  
10月    「ぶらり探訪・東海道」時代劇専門チャンネルの取材撮影
       12月に放映    出演 原田龍二 松村邦洋 
11月6日  諏訪町自治会主催の「第6回ふるさと講座」にて「安政の大地
        震からまなぶこと」 をテーマに講演
        (静岡新聞、庵原新聞等記事)
11月    展示換え 「安政の大地震における蒲原宿の様子」
12月11日 「特だね」取材 大地震特集(12月23日フジテレビ系列で放
        映 司会小倉氏)


24年度
資料館開館 土曜・日曜・休日他  展示品・蒲原宿・渡邊家・土蔵の説
         明等

1月     江戸時代蒲原宿本陣の平岡家(現在京都市在住)を川島
        氏らと 訪問する(庵原新聞記事)
3月3日   FM清水の取材 安政の大地震について(放送)
5月     日本ウエザーニュース社の出版部門である(株)IDP出版
        社の取材。7月発行の季刊誌SORAの夏号に記事。
7月27日  諏訪町自治会主催「第7回ふるさと講座」にて「蒲原の地
       名と古地図」をテーマに講演(8月4日庵原新聞記事)
9月8日  志太歴史と文化を楽しむ会主催で「歴史に学ぶ地震の痕
       跡ー 蒲原における安政大地震の記録」を講演   
9月19日  NPO等による文化財建造物の管理活用事業(東海大地
        震等に備えて旧蒲原宿の文化財建造物を地域で守る事
        業)の一環としてまちなみ講演会の「蒲原宿を襲った大災
        害を考える」のテーマ の中で「安政の大地震について」の
        講演(静岡新聞、庵原新聞記事)
9月20日  静岡市による土蔵の調査(~21日)増田先生他
10月     滋賀県立大学の教授様他が視察来館
11月1日  中部建設協会所長様他が視察来館 
11月     展示テーマを「日本の古地図と富士山と蒲原宿と蒲原古
        代塗」に変更(静岡新聞、庵原新聞記事)
11月     国土交通省所長様他が視察来館  
11月22日 静岡防災フォーラム(主催 静岡河川事務所、静岡国道
        事務所、静岡県、静岡市、静岡建設業界、清水建設業
        界、島田建設業界) 共催 中部建設協会による「災害
        に学び迫り来る巨大地震に備える」で「蒲原における安
        政大地震の記録~渡邊利左衛門守亮の日記から」と題
        し講演
11月    県立科学技術高等学校様の視察来館
12月18日 BSジャパン「杏が歩く!恋する東海道」取材撮影
        案内は磯田道史先生(「武士の家計簿」で有名)
        (来年2月放映予定)
12月27日 静岡市文化財課様の視察来館


    その他民間団体、個人が多数来館しています。対応は館長が
    ほとんどしております。館長不在の平日は代表が対応してい
    ます。ここに記載したのは記憶にあるものだけです。

  


Posted by 23代 at 20:23Comments(0)

2012年09月06日

3階建ての蔵は全国的に少ない

8月26日(日)にS県立大学の教授(工学博士)と大学院生さんが当家の蔵調査のため視えられました。
先生たちは3階建ての蔵(伝統的な土蔵造りの蔵)を専門に研究しているそうです。
先生たちの研究によれば3階建ての蔵は、江戸初期及び明治期にのみ建築された珍しい建物で、ゆえに
その数は少なく、現存する例もそれほど多くないそうです。
その大きな要因は、江戸初期(1651年)に3階建築禁止令がだされ、以降3階建の建物の建築が規制され
建てられなくなったからだそうです。その他構造上の問題とかともいわれている。建築後であれば地震とかで
壊れたものもあったと考えられます。

調査してみると3階建ての蔵は50例が現存している。地域的な偏りは若干みられるがいずれにしろ少ない。
建築された年は必ずしも明確ではないが、建築年代順に並べてみると

 ①兵庫県たつの市小林家      1656年?
 ②滋賀県近江八幡市旧西川家   1681-1683年
 ③岡山県倉敷市井上家        1701-1800年 
 ④新潟県魚沼郡旧目黒家新蔵   1800前半
 ⑤石川県金沢市旧銭屋家      1867年
 ⑥滋賀県彦根市I邸          1861-1864年
 ⑦新潟県魚沼郡旧目黒家中蔵   1871年再建
  以降は明治期に建築されたもの

当家の蔵は年代でみると1839年に建てられたことがいろんな資料から明確ですから、④か⑤番目になりそうです。
構造は四方転(しほうころび)という他にない構造で建築されているので先生たちも非常に興味を持ったようでした。

いずれにしろまだ調査段階ですので先生方の今後の研究を待ちたいと思います。


追記 江戸後期になると3階蔵が建築されている例がある(当家の蔵もそうです)。これは規制が緩くなったのか
    何らかの理由があったのかは不明。










  


Posted by 23代 at 11:16Comments(0)

2009年08月21日

金璙夫婦の京都旅行2(文政10年、1827年)

先週はお盆休みでとても忙しく、記事を書いている余裕がなく休ま
せて頂きました。それにしても田舎のお盆(特に本家)は家族・親
戚・友人が集まり大変賑やかです。

さて話は一番最初にもどって私たち夫婦が金璙夫婦の京都旅行
を辿って行った妙心寺でのことをお話したいと思います。

妙心寺の塔頭のひとつに海福院があります。ここは観光客もあま
り訪れることもなく静かです。ここが当家のご先祖様がお世話にな
ったお寺です。山門を入るとご住職様が庭の掃除をされていまし
た。なんと声をかけていいかと迷いましたが「すみません。江戸時
代にお世話になった原宿・植松家の親戚で蒲原宿の渡邊といいま
す・・・」と言うと、何とご住職はすぐにお分かりになったようで「その
節はお世話に・・・本堂の方にどうぞ」と案内して下さった。

本当に分かって頂けたのか不安に思いつつもご住職について本堂
に入って話をしました。すると、江戸時代の当家のことを本当にご存
知でした。分かっていらっしゃると思うと(どうして受け継がれている
のかはわかりませんが)とてもありがたいことだと驚きと感動をおぼ
えました。

ご住職より海福院は福島正則の寄進により建造されたもので「福
島正則が使った槍」「丸山応挙の作ったつくばい」「法堂の雲龍図」
を作った狩野探幽がこの寺を宿舎としていた時に酔って落書きをし
た襖」さらには「今ではもう絶えてしまった?茶道(の流派)」が残っ
ているということで見せていただきました。

その後もご住職様と歓談しましたが、ご先祖様もこの寺でこのよう
にしていたのかと思うと何か懐かしさのようなものがこみ上げて来
るのを禁じ得ませんでした。

また、ご住職様にはお忙しい中、突然の訪問にも関わらず大変親
切な応対をしていただき心から感謝いたします。

*原宿の植松家について
   シーボルトが日本一の庭園と賞賛した「帯笑園」で有名な家
   当時の静岡県東部では有数の資産家として有名
   この話の当時の当主植松応令は丸山応挙の弟子
   当渡邊家には植松応令の娘が金璙に嫁いでいます
 







  


Posted by 23代 at 09:26Comments(0)

2009年08月07日

金璙夫婦の京都旅行(文政10年、1827年)

古い話ですが2001年11月京都に妻と旅行に行きました。目的地は妙
心寺です(臨済宗妙心寺派大本山)。
当家は日蓮宗であり妙心寺とは宗教上では関係ありませんが、臨済宗
中興の祖といわれる白隠禅師が近くの原宿の出身で、当家とは姻戚
関係にあったこと。さらには18代金璙夫婦が新婚旅行(兼病気治療)で
妙心寺に行きいろいろお世話になったことが古文書に記されていること
から興味を持ちご先祖様の足跡を辿ってみたいとの気持ちになったから
です。

また昨日静岡市丸子の有名な吐月峰柴屋寺を見学した際お上人様と
歴史の話で親しく話をさせていただきました。その時当家のご先祖様が
柴屋寺の竹で作ったものを京都にお土産として持って行って大変喜ば
れたと話をしましたが、それが何であるか後で調べておきますと回答し
てきたので気になっていたこともあります。
先に調査結果を報告しておきます。ご先祖様が京都旅行に持っていった
土産は吐月峰の蓋置、鮎一連、芝川苔です。

さて本題に戻って金璙夫婦 は文政10年(1827年)に共と籠人足二人
を連れて京へ旅をしました。目的は新婚旅行、病気治療、神社仏閣の
参詣のためで、往来手形の期限は70日です。
8月19日に、明け方出発、夫婦は交代で籠に乗り各地の名物を味わ
いながら名所に立ち寄り、14日目の9月3日に京都に到着しました。
落ち着き先は、木屋町四条下ル二丁目亀屋源太郎裏借家。10月26
日の帰宅まで、ここを拠点に多くの文人たちと交流しました。

交流した人々

   医師  竹中文輔
        新宮涼庭    純正書院という私塾を開き医学教育を
                  行なった。現在その場所は「順正」とい
                  う有名な湯豆腐屋になっています。
   仏師  林如水      日蓮宗の仏師
   金細工 龍文堂安之助 
   絵師  長澤芦州     丸山派 芦雪の子
        松村景文     四条派 呉春の子
        岡本豊彦     四条派 呉春の弟子
        岸駒        岸派の祖 丸山応挙の門下
        岸岱        岸駒の長男
        連山        岸駒の弟子
   歌人  賀茂季鷹     上賀茂神社の神官
        一井静子     賀茂季鷹の側室
   陶工  仁阿弥道八    

それでは続きは来週にします。










  


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2009年07月31日

安政の大地震(その後)

 安政元年(1854年)
  12月15日
    先月25日よりたびたび地鳴りが響く。今朝はまたひどく大波を遠く
    で聞くようだ。
  12月21日
    大雨、昨夜から遠くで地鳴りがする。その音は大波と雷のようだ。
    今朝はまた一段とひどい。地鳴りが消えると大風がおこる。
 安政2年(1855年)
   8月 1日
    7月25日から大雨が続き昨夜の大雨で本町裏が崩れ山居沢を埋
    める。杉森稲荷も埋まる。
   9月28日
    夕方食事が済んだ頃揺れ始め大地震となる。昨年の11月4日のと
    きの地震に近い。
  10月 2日
    9月28日より少し軽いが江戸で大地震のようす。
 安政3年(1856年)
   4月 1日
    大地震のあと、善福寺で温泉らしい湯が湧き出し入湯にいく。
   9月 1日
    日蝕
 安政4年(1857年)
   2月24日
    大きな地震
   6月 6日
    大きな地震
   6月10日
    大きな地震
   7月 8日
    一日中大雨、大風。浸水
   7月 9日
    山崩れが起きる。竜雲寺全部潰れる。本堂は山に押され街道まで
    ずり出す。柱は残らず折れ、屋根ばかり地にすわる。
   7月11日
    本町、杉森稲荷の後ろの山が崩れ中腹に穴があき水を噴き出す。
    皆で見物にいく。この水はたいへんきれいで皆で飲む。
  12月12日
    地震後富士川の流れは岩淵水神下より東にうつり、富士川東は
    みな水害となる。
 安政5年(1858年)
   6月23日
    昼過ぎから雨が降り始め大雨になる。夜になりますますひどくなり
    一晩中すごす。
   6月24日
    夜明け前に山崩れ。諏訪神社が全部潰れる。なんとか太鼓を掘り
    出す。明るくなり町内を見回ると多くの家が潰れていた。午後再び
    山崩れがあり東漸寺、城源寺も全部潰れる。

  善福寺で地震後温泉がでたと書いてありますが、業者によりますと、
  今でも採掘すればほぼ100%温泉が出ると言っているそうです。

  安政の大地震は今回で終了し、次回はまた新しいテーマを取り上げ
  ます。









  


Posted by 23代 at 09:11Comments(2)

2009年07月24日

安政の大地震3(地震の前兆)

安政の大地震安政元年(1854年)11月4日の前兆について

  安政の大地震の10年程前から地震の前兆らしき事項を調べてみる
  と摩訶不思議なことや自然災害が続出しています。関連性うんぬん
  はわかりませんが以下に発生事項を列挙してみます。
   どなたか関連が分かる方は教えて下さい。

  天保14年(1843年)2月上旬
    夕方西の空 由比山の上に巾の広い筋が斜めにまっすぐ上がる。
    18時すぎ頃が一番明るく夜22時頃消える。
  天保14年(1843年)7月30日
    夜五つ半時頃(19時頃)辰巳(南東)の方に急に大きな光が現れ
    る。
    白夜のようになり2町ばかりに広がり消える。
  弘化3年(1846年)7月7日
    富士川大洪水
  嘉永1年(1848年)6月5日
    大雨で谷津沢決壊
  同6月12日
    富士川大洪水
  嘉永2年(1849年)7月10日
    富士川大洪水
  同8月2日
    富士川大洪水
  嘉永3年(1850年)4月12日
    夜、地震4度
  同6月
    大雨で谷津沢満水光蓮寺まで三居沢会所前まで決壊
  嘉永5年(1852年)3月27日
    八幡町のお門という老婆が観音山東方で大みずちに出会う
  同 6月23日
    今年最も暑い暖計89度
  同 7月23日
    富士川大洪水
  同 8月10日
    大風雨 谷津沢切れ東漸寺まで一里塚より並木松11本倒れる
  同11月 1日
    日蝕
  嘉永6年(1853年) 1月 3日
    東の方から西瓜程の火の玉がひとつ空中を通り宿の中程で破裂す
    る。
  同 2月11日
    大雨 谷津沢は大荒れ 三居沢は橋の所で切れ、海前寺前も曲り
    角で切れる。
  同 2月
    地震2度 家中の人が飛び出す 箱根山、小田原あたりは大破損の
    様子
  同 6月 6日
    暑さ90度  *=セ氏32度
  同 7月11日
    富士川大洪水 枡形は流れ中之郷下(現富士市富士川)から赤岩
    (同富士川)へ水が入る。山居沢は海前寺へ切れ谷津沢も決壊
  同11月26日
    夕方江戸屋の店先に皆で立ち寄っていた所、東漸寺の方より火の
    玉が飛んできた。小さい玉は長右ェ門の空き屋敷に落ち、大きい玉
    は問屋場の上で破裂する。
  同11月4日
    安政の大地震発生



      今回はここまでとさせていただきます。
      
      下田へ黒船を見に行った時連れて行った画家が描いた絵

 


 
    






  





    


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2009年07月17日

安政の大地震2

嘉永7年(1854年)
 11月6日
    曇る 刈屋をまた別に作る。
    アラク山、あちこち崩れる。地震4,5回で日暮れになる。
    (註 アラク山は現在の桜名所の御殿山 当家の近く)

 11月7日
    日和 急難につき、宿内の人達に米を分ける。金子も与える。
    今日、地震少なくなる。はじめて本町の焼け跡を見る。帰りに
    東漸寺による。墓石残らず倒れる。
    夜地震5度中程度。

 11月8日
    晴れ 土蔵に雨おおいをかける。夜、地震小2度

 11月9日
    曇る 朝より昼過ぎまで小雨。お代官様とお手代様が見聞。
    浜の田畑は、地割れして7,8丈(約20~25m)も水が沸いて
    大川となる。錆び色の水が沸き、石を噴出す。高浜は地割れが
    ひどく巾5,6尺(約1m50cm~2m)から1丈(約3m)長さ
    数十丈(約150m~200m)、その割れ目に大穴がある。
    水が噴出し松の木までなぎ倒す。田畑はでこぼこになり、その
    中に大きな割れ目あり。八津沢は10~30m地中に沈み平ら
    になる。
    雨堤は裂け目ができ、今にも破裂しそうである。富士川は岩淵
    水神より切れ死人川という。富士川の水はいたって少なく、川
    原は山のような丘になる。
    夜3度ひどくゆれる。
    (註 八津沢、雨堤は旧諏訪町内にあり。特に雨堤は江戸時代
     の桜名所)

 11月10日
    晴れ 暖かい 潰れた土蔵のかたづけをはじめる。
    三階庫が傾いていたので引き起こしを相談する。
    夜、地震小3度。

 11月11日
    晴れ 人足がおおぜい集まる。三階庫の柱は傷み無し。
    夜、地震小3度。

 11月12日
    晴れ 本家かたづけ。昼地震きわめて小さく、夜、地震無し。

 11月13日
    晴れ 手伝い人おおぜい本家かたづけ。地震止む。

 11月27日
    晴れ 大風に付き蔵のかたづけは休む。
    昨日夕方異国船(長さ50間ほど、帆柱3本)この内海に入
    る。
    (註 内海とは駿河湾蒲原・由比付近で昔このあたりを田子
     の浦とよんでいた)
    今朝 磯伝いに五貫島にかかる。アラク山に登って数十人にて
    見る。この異国船は下田港に停泊中、このたびの大地震にあい
    大破しこの内海に漂流してきたとの事。
    (註 この異国船がロシアのディアナ号)

 11月29日
    ロシア船 五貫島(富士市)に停泊。異人約300人この村に仮
   住居。

 12月2日
    三階庫引き起こし、4両にて頼む。
    五貫島村に停泊中のロシア船、異人はこの村に留まり 船は修
    理のため、五貫島から倉沢(由比)までの漁船数百艘にて同村
    を引き出す。
    我ら、アラク山に登り眼下を見る。順風に引き出すが、急に大波
    がおこり、日本船は残らず東西に逃げ帰る。異国船は大波にこ
    らえきれず沈没する。我ら山の上から見る。神風恐るべし。

    地震後はじめて枡形を見に行く。この地震で富士川の地形が一
    変する。川中が亀の背のようになり、流れが8分どうり加島(富士
    市)へ流れ、蒲原へは2分となる。

 12月3日
    昨日ロシア船から積み出してあった荷物が 五貫島の磯辺に6町
    ほどに広げられ 珍器は花のようである。この異人たちは漢字は
    わからず、アメリカ語は少々通じるとのこと。

 12月6日
    五貫島にロシア人を見物に行く。一時460人ほどいたロシア人は
    昨日5日、200人ほどが戸田港へ引き渡された。今年5月に下田
    で見たアメリカ人とあまり変わらない。残りの異人も戸田港へ送ら
    れたとのこと。

  

          今回はここまでとします。

    下田へ画家を連れて黒船を見物に行った時の絵です。

 









    













      


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2009年07月10日

安政の大地震

今回は趣向を変えて当家に残る資料(渡邊利左衛門守亮の日記)から安
政の大地震について書きたいと思います。
少し長いので数回に分けて日記にしたがって書きます。

嘉永7年(1854年)
11月4日
   風邪気味に付きゆっくり朝寝坊する。五つ半時(9時半頃)地震揺れ始
   める。だんだん強くなる。寝巻きひとつで駆け出す。おいおい大地震に
   なる。大声で家中の人を呼びながら前の畑へ行く。ますます大地震に
   なりこの世の終わりのように思えて見渡すと、まわりの人達は気絶し
   ていた。少し静かになりまわりを見ると、我が家は潰れ土蔵も三階庫
   を除いてすべて潰れていた。(注 土蔵は6棟あった)
   まわりの家はもちろん皆潰れ驚くばかり。家の者の無事を確かめる。

   この時西の方に火の手が上がる。風のない所にまっすぐ上がり大火
   になる。大変な惨事になると思い、三階庫に入り祖先の記録を持ち
   出す。火事は三居沢西側より焼け始めて、ますます燃え盛る。雲助
   4,50人に米を2俵を渡し消化を命ずる。追加で3俵渡す。

   裏の田に仮屋を建て避難するが、季節は寒く耐え難い。地響きと共
   に地震が数十度続く。雉が鳴くとすぐに地震がおきる。

11月5日
   晴天 朝より地震数十度あり。
   八幡町の忠助の妻が家から逃げようとして下敷きになって死ぬ。西
   古屋敷の源十の母も潰れて死ぬ。新田鍛冶屋金左衛門の母も死ぬ。
   新田吉右衛門の孫も死ぬ。城源寺の隠居番人と孫も二人抱かれて
   死ぬ。これは、元禄の大津波以来の大難なり。この地震は東は箱根
   より西は袋井あたりまでの広い範囲におよんだらしい。由比と原は
   被害は被害は少なく、江尻、三島はひどかったようだ。甲州、伊豆
   下田は大変な被害の様子。
   このとき、下田にロシア船(ディアナ号)が停泊する。

   この夜も地震数十度。


          今回はここまで

  


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2009年07月03日

木屋稲荷について

当家敷地内には稲荷があります。天保9年(1838年)2月に当家
18代渡邊金璙が当家稲荷として石御祠を造ったものです。その
後弘化2年(1845年)に京都伏見稲荷本官羽倉伯耆守より正一
位稲荷大明神の位を授けられ、弘化3年2月8日初午の日に祠
に入位されました。当家に稲荷を授けた羽倉伯耆守さまは伏見
稲荷で代々正官を務めていた羽倉一族の出身であり、この一
族は学問でも高名でです。中でも羽倉信盛(荷田東丸大人)は
学問の神として伏見稲荷に隣接する地(東丸神社)にまつられ
ています。
伏見神社に行く際はぜひ立ち寄ってみたらいかがでしょうか。
さて、前述したように当家稲荷は伏見神社の流れですから当
然に「商売繁盛」を目的に造られた物ですが、なぜか当初から
当家や近隣の人達から「おたふく風邪」の稲荷として親しまれ
ています。
なぜかは今になってはわかりませんが、18代金璙が文政11
年[1828年)に原宿植松應令の娘を妻に迎え、京都へ新婚
旅行兼病気治療で行っております。その際交流のあった歌
人で国学者でもある賀茂季鷹から伏見の稲荷山で作られた
「おふく人形」を送られています。その人形のほっぺたの様子
と、当時おたふく風邪が流行していて当家稲荷にお参りする
と治ったことから「おたふく風邪」の稲荷と言われるようになっ
たのではないかと思われます。
   


Posted by 23代 at 11:01Comments(4)

2009年06月26日

木屋(きや)の土蔵について(静岡市指定文化財)

1、建立の経緯
  木屋の土蔵は天保8年(1837年)12月に建てはじめ、約1年6月後の
  天保10年(1839年)5月に完成した三階建ての文書蔵です。普通、
  蔵は米・味噌等を保存するために建てられるものですが、この蔵は
  文書を主に保存〔管)するために建てられたものです。
   なぜ文書蔵を建てたのかというと、当家が蒲原宿の問屋職をやっ
  ていた時宿の記録は問屋場に保管されているだけでした。そこで
  万が一火事が起きたとき、問屋場が被害に遭うと今までの蒲原宿
  の記録がすべて消失してしまうことに気づき、記録は二部づつ作成
  し一部は問屋場に、一部は当家に保管することにしました。そのた
  め文書を保管するための文書蔵を建てる必要に迫られたからでした。

2、蔵の特徴
  ①全国的にも珍しい「四方転」(しほうころび)又は「四方具」と言わ
    れる江戸時代の耐震構造で出来ている。(例、鐘楼の形を思い
    出してください)
  ②しかも三階建てであり、非常に珍しい。
  ③建立年代(1839年)が特定でき、この地域では一番古い建造物
    である。
    建立15年後に起きた安政の大地震でこの地域の建物はほとんど
    が倒壊したり、その後起きた火災により消失し、残ったものはこ
    の蔵他ほとんどなくなったといわれている。当家もこの土蔵以外
    の母屋及び蔵5棟が倒壊している。
  ④上記の理由により静岡市指定文化財である。
  ⑤中にある古文書(木屋文書)は調査途中であるが3002点が静岡
    市指定文化財となっている。  続きを読む


Posted by 23代 at 15:54Comments(7)

2009年06月19日

渡邊家について紹介

蒲原ではもっとも古い家のひとつではないかと思います(特に先祖の記録が残っている面からは)。
江戸初期から蒲原宿の要職を代々務め、特に江戸中期以降は韮山の江川太郎左衛門から名主兼問屋職(今で言えば町長~市長クラス)として命じられ、蒲原宿ばかりでなく他宿も再建に取り組んだ。18代目の時は郡中総代(今の市長以上のクラスで凡そ旧蒲原町・富士市・芝川町等を管理)を命じられるなど江戸時代の蒲原宿を知る上ではなくてはならない家。
蒲原町史、静岡県史に紹介されている。ちなみに私は23代目。

農業の他に富士川を使っての材木問屋を業としており、江戸の大火による江戸城再建、鶴岡八幡宮再建等では当家から材木がおさめられた。山梨県旧鰍沢町は「塩の道」の山梨県側入口ですが、ここの塩の元締めは当家の親戚であり塩と材木が富士川を使って行き来していた。そうした交通路上の大きな役割も当家は果たしていた。

文人墨客も当家とは縁が深い。特に丸山応挙につながる人達とは縁があり、富士山を描く時は当家別荘に泊まり描いていったそうです。残念ながらその画はありません。

  


Posted by 23代 at 15:38Comments(6)

2009年06月15日

開館日時のお知らせ

開館・見学について
  ①土曜、日曜、休日の天候が雨等湿気が少ない日
  ②渡邊家の夫婦どちらかが在宅している時
  ③時間はおおよそ午前9時ごろから午後3時ごろまで
  ④見学予約をしていただければなるたけ時間調整します
   予約はメールedo-kiya@beige.plala.or.jpへ
   後で当方から連絡します
  ⑤入場料は無料です
  ⑥住所は静岡市清水区蒲原二丁目2-30
  ⑦電話番号 054-385-3441  


Posted by 23代 at 16:27Comments(3)

2009年06月15日

はじめまして

ブログを開設しました。
毎週金曜日更新を目指してがんばります。  


Posted by 23代 at 10:47Comments(17)