2009年07月10日
安政の大地震
今回は趣向を変えて当家に残る資料(渡邊利左衛門守亮の日記)から安
政の大地震について書きたいと思います。
少し長いので数回に分けて日記にしたがって書きます。
嘉永7年(1854年)
11月4日
風邪気味に付きゆっくり朝寝坊する。五つ半時(9時半頃)地震揺れ始
める。だんだん強くなる。寝巻きひとつで駆け出す。おいおい大地震に
なる。大声で家中の人を呼びながら前の畑へ行く。ますます大地震に
なりこの世の終わりのように思えて見渡すと、まわりの人達は気絶し
ていた。少し静かになりまわりを見ると、我が家は潰れ土蔵も三階庫
を除いてすべて潰れていた。(注 土蔵は6棟あった)
まわりの家はもちろん皆潰れ驚くばかり。家の者の無事を確かめる。
この時西の方に火の手が上がる。風のない所にまっすぐ上がり大火
になる。大変な惨事になると思い、三階庫に入り祖先の記録を持ち
出す。火事は三居沢西側より焼け始めて、ますます燃え盛る。雲助
4,50人に米を2俵を渡し消化を命ずる。追加で3俵渡す。
裏の田に仮屋を建て避難するが、季節は寒く耐え難い。地響きと共
に地震が数十度続く。雉が鳴くとすぐに地震がおきる。
11月5日
晴天 朝より地震数十度あり。
八幡町の忠助の妻が家から逃げようとして下敷きになって死ぬ。西
古屋敷の源十の母も潰れて死ぬ。新田鍛冶屋金左衛門の母も死ぬ。
新田吉右衛門の孫も死ぬ。城源寺の隠居番人と孫も二人抱かれて
死ぬ。これは、元禄の大津波以来の大難なり。この地震は東は箱根
より西は袋井あたりまでの広い範囲におよんだらしい。由比と原は
被害は被害は少なく、江尻、三島はひどかったようだ。甲州、伊豆
下田は大変な被害の様子。
このとき、下田にロシア船(ディアナ号)が停泊する。
この夜も地震数十度。
今回はここまで
政の大地震について書きたいと思います。
少し長いので数回に分けて日記にしたがって書きます。
嘉永7年(1854年)
11月4日
風邪気味に付きゆっくり朝寝坊する。五つ半時(9時半頃)地震揺れ始
める。だんだん強くなる。寝巻きひとつで駆け出す。おいおい大地震に
なる。大声で家中の人を呼びながら前の畑へ行く。ますます大地震に
なりこの世の終わりのように思えて見渡すと、まわりの人達は気絶し
ていた。少し静かになりまわりを見ると、我が家は潰れ土蔵も三階庫
を除いてすべて潰れていた。(注 土蔵は6棟あった)
まわりの家はもちろん皆潰れ驚くばかり。家の者の無事を確かめる。
この時西の方に火の手が上がる。風のない所にまっすぐ上がり大火
になる。大変な惨事になると思い、三階庫に入り祖先の記録を持ち
出す。火事は三居沢西側より焼け始めて、ますます燃え盛る。雲助
4,50人に米を2俵を渡し消化を命ずる。追加で3俵渡す。
裏の田に仮屋を建て避難するが、季節は寒く耐え難い。地響きと共
に地震が数十度続く。雉が鳴くとすぐに地震がおきる。
11月5日
晴天 朝より地震数十度あり。
八幡町の忠助の妻が家から逃げようとして下敷きになって死ぬ。西
古屋敷の源十の母も潰れて死ぬ。新田鍛冶屋金左衛門の母も死ぬ。
新田吉右衛門の孫も死ぬ。城源寺の隠居番人と孫も二人抱かれて
死ぬ。これは、元禄の大津波以来の大難なり。この地震は東は箱根
より西は袋井あたりまでの広い範囲におよんだらしい。由比と原は
被害は被害は少なく、江尻、三島はひどかったようだ。甲州、伊豆
下田は大変な被害の様子。
このとき、下田にロシア船(ディアナ号)が停泊する。
この夜も地震数十度。
今回はここまで
Posted by 23代 at 10:44│Comments(1)
この記事へのコメント
この手の資料はどこの宿場にもあって、時には出版されることもありますが、文字がわからなかったり、現代の言葉遣いからみると意味不明なこともあったりして、読むことが困難なことが多々あります。
こうやって現代語に書き換えていただくと、意味がはっきりとわかり過去の事柄が身近に感じられますね。
利左衛門さんが生きているようにかんじられたりします。
こうやって現代語に書き換えていただくと、意味がはっきりとわかり過去の事柄が身近に感じられますね。
利左衛門さんが生きているようにかんじられたりします。
Posted by くじら山こうじ at 2009年07月11日 21:36