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23代

2013年10月04日

古代田子浦考 1

山部赤人が「田子の浦ゆ・・・・・」と詠った場所はどこなのかを何回か
に分けて説明していきたいと思います。

1、地元静岡の大学の先生の見解はどうなのか。代表的な意見をみて
  みると

  ①静岡県立大学のT名誉教授
   
    田子浦は由比~蒲原の富士川までの海岸をいう。詠まれた場所
   をさらに絞ると現在の蒲原地区富士見橋近辺といえる。西から東
   へ歩いて来て富士山が急にその全体を現した時の、雄大な姿を
   見た時の感動を感じる場所はこの場所しかない。
   富士市田子の浦では蒲原から富士山の同じ姿がずっと見えてお
   り、そうした感動はない。(平成25年9月 入江万葉集講座)

  ②常葉学園短大 0教授
   「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」
   初句は「田子の浦に出て」見るのでは決してない。「田子の浦を通っ
   て出て」見るのである。二句目の「うち出でて見れば」は、今まで視界
   がさえぎられていた所から急に広々とした所に出て見る事をいう。田
   子の浦を通ってある場所にに出たとたんに、眼前に富士山の全容が
   望めたその感動が一首の眼目である。東へ下る道筋にそうした景の
   現出する場所を求めるとすれば、それは薩埵峠あたりがもっともふさ
   わしい。とすれば万葉の田子の浦は、興津の東方から由比・蒲原附
   近までの海岸と見るのが正しい。田子の浦が徐々に東へ移行し、現
   在の田子の浦港に落ち着くのは中世以降のことであった。(静岡の
   文化 1991秋号 第27号 万葉びとと海)
 
                 今回はここまでとします   




Posted by 23代 at 22:30│Comments(2)
この記事へのコメント
本日(12月23日)、ウオーク仲間と共に文書蔵へおじゃましました。驚きました。浅間資料館での「安政の地震」展示の中に、渡邊家と文書蔵があって、このとき初めて知り、いつかは訪れてみたいと思っておりました。本当に素晴らしかったです。ありがとうございました。

奥様の説明もわかりやすく、また「木屋江戸日記」も読みやすく、こんな歴史の宝庫がこんな身近にあることに感動しました。
渡邊利左衛門金璙「生涯略記」、渡邊利左衛門守亮「日記」の活字本、図書館の蔵書を探しましたがないようですが、蒲原町史には掲載されているのでしょうか。
Posted by さやこ at 2013年12月23日 20:28
大変遅くなって申し訳ございません。コメントがめったにありませんので見落としていました。早速ですがご質問の件お答えします。
活字になっている本はありません。蒲原町史の資料編3に生涯略記が載っていますが、現在販売されていません。図書館等で見ていただけたらとおもいます。守亮の日記は解読されていません。
また来て下さい。
          渡邊
Posted by 23代23代 at 2014年02月04日 20:34
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古代田子浦考 1
    コメント(2)